職場の同僚(たしか院生)が一言。 「そういえば通知表に取ってなかった世界史の成績がついてて変だと思ったんですよねー」 そ、それって、あわわわわ。 とはいえ、昨日の日記でも書いたけれど、世界史が必修になって12年たつわけで、単位を偽装していた学校だっていきなり始めたわけでもあるまい。つまり、まあ、そういうことなんだろう。
ただ、なんだかどうも必修科目を履修させなかった学校の肩を持ちたくなってしまうのはなぜなんだろう。 世界史をあのタイミングで必修とすることに、何らかのコンセンサスなり必然性なりがあったのか。 世界史を必修にしたことで、なにか変わったのか。 必須とされたことを、受験科目に必要ないとかいった理由でやらないのはよくないことだということは当然なのだが、それでもやりたくなかった・やらずに済んでいたということは、必修にする意味がそもそもなかったか、その意味が共有されていなかったということではないだろうか。 必修科目としてみんなにやらせてもあんまり効果がない、とか、 必修科目にしなかったからといって誰が困るんだ、とか、 言い抜けられる論理がいろいろ存在する状況がなんでできてしまったのかを考える必要があるのでは?
履修逃れをした学校を批判するのは正論だし、世界史の知識と視点を得ておくのは大事だとも思う。でもこれ、文部省(当時)の現場を無視した改訂だったんじゃないのか。
いや、現場とか言ってしまうと教職員の負担の話になってしまいそうだけれど、そうではない。 次の世代に何を伝えるか、どういう次世代が育ってほしいかというヴィジョンを欠いた教育改革が、この国ではずっと続いていて、短絡的な迷走をいろいろしてきたんだと思う。公教育のみならず、社会人のスキルアップという面でも、次の世代を育てることはあまり真剣に考えてこられなかったんだし。 今回の問題はその一端に過ぎないんじゃないか、ということ。今見えやすい問題を集中攻撃するのは簡単だけれど、それでさらに大きな問題を見失うのはまずいんじゃないか、と思うのだ。
今日の晩ごはん。 イワシのソテー ガーリックパン粉添え、キュウリとカイワレと海藻のサラダ、カボチャのミルクスープ、小松菜のじゃこあえ、ピーマンのお浸し。 | |