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文章を書くということ

〜かつて「個性的」と言われた変わり者の遍歴の行方


 文章を書くことは、昔から好きだった(嫌いだったらいくつもホームページ持って駄文を書きまくっているわけはないのかも知れないが)。文字が読めるか読めないかという小さい頃から、夢は「小説家になる」だったし、実際人より書いた文章は多かったと思う。これまでの人生のほとんどの間、私は「書く」ということに憑かれた人生を送ってきた。だが同時にその期間は、人に文章でものを伝えるということがどれだけ難しいのかを痛感させられてきた期間でもあった。要するに、あれだ。書くことが好きなのに、うまく書けたためしというものがほとんどないのだ。それでも我ながらなかなかと思うこともあれば、苦しまぎれなのが自分でわかっているのに書かなければならないこともある。

 不思議なのは、論文やレポートや…いわゆる「本業」であるほどうまく書けないことである。同じ題材を使い、同じ論旨で書いたとしても、ゼミの発表用に書いたものと、このホームページに載せるものとでは、きっと全然違うものになる。発表用のものは、自分でも何を書いているのかわからないような支離滅裂な文章になっているはずだ(いや「はず」で済まされるもんじゃないけど)。そんなことを繰り返しているうちに、いつしか比較的ましに書けていたはずの趣味の雑文や小説すら書けなくなってしまう。描写が、死んでしまうのだ。登場人物のが動かず、書き割りの背景のようにじっとしたまま。嵐の情景を描いているはずなのに、木の葉一枚そよがぬのような文章…。こんなはずではなかったのに。

 そこで思う。「こんなはず」だと想定しているものは何なのか。論文の場合は「こんなはず」という明確なイメージを持てない、あるいは研究の文脈に置けないような空疎なものである(それはひとえに自分の不勉強によるものなのだが)からうまく書けないのかも知れない。だが、そうでない雑文において、いったい私は、何を表現しようとしているのか。ホームページも私にとっては表現した結果を他者に伝えるために出す場でしかない。大事なのは、表現するという行為だ。…ならばなぜ、表現することが私にとってそんなに大事なのだろう。

 かつては、描きたくて仕方なくなるような内面世界を持っている自分は特別なのだと自惚れたこともあった。アイデアは沢山ある。問題は、文章や絵や写真や…そういった表現媒体を使って表現するために必要な技法が自分にないせいなのだと。だから、いろんな表現方法に手を出してきた。だが、大概のものは長続きしなかった。

 それは多分、うまく表現するためにはやはり努力が必要なのに、その努力を倦んだからだ。ある意味でその表現方法が「自分の内面を表現するのに適さない」と思ってしまったわけだが、考えてみれば、ちょっと手を初めただけで自己表現なんてものができるわけはない。逆に言えば、あの時続けていれば…というものが、かなりある。だが、当時の私はそう思ってはいなかった。続けられないのは表現方法が合わなかったせいだと。そしていつか夢のような方法に出会えるのだと…。

 そんなこんなしているうちに、自分が表現したい世界というものに疑問を持つようになった。確かに書きたい、表現したいという衝動はある。書くネタも、そこそこある。だが、そんなことは別段珍しくもなんともない。書くことに、表現することに憑かれているのは、多分私だけではない。そもそも、そんなに表現したいようなご大層な「内面」なんて、自分にあるのだろうか。…いや、そんな確固としたものを持っている人など、いったいどのくらいいるというのだろうか。

 本館のゲーム評論のページ「内面の大衆化」という話を始めたのは、自分自身がその答えを知りたいからである。私達は、それぞれが「個性のある存在」だと教えられてきた。個性とは何かもわからぬうちから「個性的」であれと言われてきた。自分が「個性的」であったかどうかはわからないが、とりあえず教師からはよくそのように言われたし、自分が周囲から浮いた存在であったことは自覚している。だがそれでよかったことがあったとは、あまり言えない。…こんなことを言うと「個性を抑圧する教育のせいで云々」とか言う人もいるのだろうが、それは、ちょっとアヤシイ。抑圧するもなにも、自分が他人とは違う「個性的」な存在だと思った途端、外界のあらゆるものが抑圧装置として感じられてしまうではないか。ちょうど、表現できないのは適した方法がないせいだと思い込んでいた私のように。むしろ「個性的」なはずだからと自らを特別視してしまう、そんな風潮が、かつては壁でなかったものまでを壁に仕立て上げているのではないか。そんな壁を、制度的に打破することなんて、できるんだろうか?

 表現方法がないという言い訳の陰で、私は表現のための努力を怠ってきた。自分で勝手に壁を創り、そこから出られないと嘯いて、出ないことの免罪符にしていた、とも言える。それに気づいた時、私に残っていたのは、幼い頃から親しんでいた「文章による表現」だった。

 だから、私は文章を書き続ける。あるのかないのかわからない「内面の世界」は、そうし続けない限り確認できないのだから。

 

 

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