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本を読むということ


 笑っちゃう、というか、随分なさけない話なのだけれど、ここ数年ほど、本を読むのが苦痛だった。苦痛なのに気づいていたわけではないのだが、どうしても気が進まず、読みたくて読んでいるつもりなのになんだか頭に入らない。要約することはできるし、それなりに理解してはいるはずなのだが、どうも楽しくない。

 文系の大学院生など、本を読んでなんぼのものである。本を読むのがつまらないなどと言ってはならない。読んで読んで読みまくり、そこから先人の歩みをたどった上で自分の位置と歩んで行く方向を定めねばならないのだから。で、本の読み方が悪いのかと、いろいろ試してみた。付箋を貼るのは、付箋が多くなりすぎて挫折。ノートにメモをとるのは、うまくまとめられずに挫折。書き込むのは、金銭的に苦しいために図書館を使うことが多いので不向き。落ち着いたのは、名刺大のカードに最低限の要旨と文献の所在を書き込む方法だ。たしかにこれならば情報をピックアップするという意味で「読む」のに効率がいい。だが、やはり面白くないのだ。

 昔はもっと、本を読むのが楽しかったはずだ。高校生ぐらいの時など、図書室に毎日のように通い、借りた本を歩きながらでも夢中になって読んだものだ。神話と宗教と民俗学、それに心理学と精神医学に偏ってはいたものの、貸出冊数は受験生時代も含めて校内で1、2位をキープしていた。誰にも強制されずに、好きだから読んでそれだけの冊数だったわけだ。そんな私に、一体何があったというのか。

 だいたい、好きでやっている研究のはずなのに、どうして面白くないのだろう。愚痴をこぼしても周囲から「好きでやってるんだから」と一蹴されるたび、面白く思えない自分がヘンだと言われているようで、気が重くなる。そしてますます、本を読むことがつまらなくなっていく。本だけでなく、研究そのものも。追求したいこと、考え抜きたいことがあって研究を志したはずなのに、気がつくと「研究に挫折した自分」を認めたくないためだけに研究を続けているような気すらする。

 そんなわけで、今年の11月末に一つ論文を提出した後、自分の研究テーマとは関係なく、読みたい本だけを読むようにしてみた。まあ、ゲームの社会学につながりそうな文献を読むという目的はあったのだが、表立って研究していますと言っているわけではないので、はたから見ると趣味に走って遊んでいるように見えるかも知れない。で、1ヶ月ほど、2〜3日に1冊のペースで読んでいった。「読まねばならない」本ではなく「読みたい」本を。

 そのうち、見えてきたものがあるような気がした。どうやら、自分がどうして本好きだったかを忘れてしまっていたらしい。読みながら自分であれこれと考えをめぐらせるのが好きだった。だから読書に没頭していたのだし、難しくて読めない本があるのがくやしくて、読めるような知識を得るために今の学部に入ったのだった。それが、いつの間にか目的と手段とが逆転し、知識を得るために難しい本を懸命に読むようになっていた。それはきっと、ある意味で正しい読み方なのだろうが、問題はそういうことではない。自分が苦痛かどうかということである。「知識を得るために本を読む」「本を読んで楽しむために知識を得る」。この2つの読み方は、私にとって車の両輪のようなものなのかも知れない。

 研究に本を読むという作業が密接に関わっている以上、読み方と研究とは相関する。本を読みながら考えにふけることが、どれだけ新たな発想をもたらしてきただろうか。自分の関心も研究のアイディアも、そうやって生まれ、醸成されてきた部分があったように思う。それを失ってしまっていたら、研究に意義が見出せなくて当然であろう。そんな状態で読む本は、つまらないだけだ。ちょっとしたゲームから得られることすら本から得られなくなったのは、ほかならぬ自分のせいなのだ。

 そういうわけで、しばらく「本を読むこと」のリハビリをしてみようと思う。今まで手がけてきた研究が一時ストップするかも知れないが、どこかで必ず関心がつながってくるような手応えもある。そうでなくても、私にとってはむしろ、本を読むことの好きな自分であることの方が重要なのかも知れないのだから。

 そして思うのは、昔知っていたこと、当然と思っていたことがいかに簡単に忘れ去られていくかということである。10年前の自分が今の自分と同じ自分だと思っていると、時々大事な忘れ物に気づかずにいる。そして過去の失われた幻想に基づくものでしかないプライドにしがみついて生きる…そんなことを、私たちは繰り返しているのかも知れない。

 

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