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中島敦について思う


 どんな形であれ、自分の考えていることを形にしようとしたことのある人ならば「自分の作品が人知れず埋もれていく」ことに恐れを感じた経験があるだろう。あるいはまた、自分が生きたというあかしが何も残らずに消えていくのかも知れないと考えた時、ふと虚しさにかられ、やりきれない思いにとらわれたことはないだろうか。

 中島敦の数少ない作品には、こんな思い…埋もれる詩人のやりきれなさとでもいうようなものが流れているように思う。漢学の素養を感じさせる硬質で透明な文体は、いっそうその感情をつのらせる。

 高校の教科書などでお馴染みの「山月記」。詩人を志しつつも「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」ゆえに志を果たせず、虎へと化した男、李徴の物語だ。虎になってからも彼は、長安の文化人に自分の詩が読まれる夢を見、もはや取り返しのつかない現状を嘆く。友人に自作の詩を託した時に、彼は言う。巧拙はともかく、このまま埋もれてしまうのでは、死んでも死にきれない、と。

「山月記」ばかりではない。「光と風と夢」のスティヴンスン、「李陵」の李陵や司馬遷(および李陵の対比としての蘇武)、作者の分身と言われる「狼疾記」「斗南先生」の三造…何も残さず、何も成さず、誰にもその所作を知られずに埋もれゆくことを恐れる登場人物は、数少ない彼の作品の中に繰り返し現れる。

 あるいは「狐憑」。物語を語り続けることによって周囲からもてはやされたが、憑き物が落ち、物語を語れなくなると、村人達の栄養源にされてしまった男の物語。物語る者にとって、物語るということは生きることそのものなのかも知れない。何も生み出せないかもしれないのに、続けなければ生きていけないこと。物語ることを知らなければ、埋もれる不安も感じずに済んだのに。

 だのになぜ、物語を語ることはやめられないのだろう。私自身そうだ。別に文章を生業とする者としての地位があるわけではない。かえって想像過多な言動や、物語に没頭する態度が周囲との対立を招くことすらある。それでも、止められないのだ。物心ついた時から、ずっと。

 それは恐らく、中島敦一人の問題ではない。だからこそ、彼の作品には胸に迫るものがあるのだろう。「文字禍」のいう「文字の精霊」の呪いは、文字を知るあらゆる者に及んでいるのかも知れないのだから。

 

 

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